プライベートな話を少々

 あとはプライベートな話を少々。私は既婚で子供はいない。明るく楽しい家族の生活が夢、子供がかわいいから欲しい、というような考えを否定するつもりは毛頭ないが、子供不要論を語らせたら日本一である(笑)。「人生積極的になれたんなら、子供ぐらい作れ」と突っ込まれそうだが、リスク回避を選択した。
警告:子供のいる人はここを読み飛ばしてね。凹んでもらっても困るので。



 子供がいないとどれだけバラ色の人生が送れるか・・・・嫁さんは現在専業主婦をやっているが、ちょうど1年前まで女子大生をやっていた。この話をするとみんな色めき立つのだが、大学院に入り直しただけのことで、残念ながら全然若くない。東京の四ッ谷駅前徒歩1分大学(笑)に2年通った。かかった費用はざっと400万円。それ以上かかる分は嫁さんに出させた(自己都合で行くのだから、そのくらいの費用負担は当然だ)。自分の子供に投資しても費用は回収できないが、嫁さんへの投資分は近日中に働いて返してくれると思うので、カネがかかった気がしない。嫁さんとは二年間離ればなれになったが、その友達は一癖も二癖もある全く別世界の連中ばかりだったこともあったりして、私自身とても面白い経験ができた。
 話は変わるが大学院に入れる時に驚いたのが、国立大学の授業料の高さである。しょうもないことしかしないくせに(学会での予稿集等を見れば分かる)、年間55万円もとりやがる。それ以来、私大の授業料がやたらと良心的に思えるようになった。とはいうものの、4年間地元を離れて私大に通うとなると単純計算で800万円必要である。特に理系に進んだら、大学院の修士課程まで行くのはもはや当たり前の状況なのでもっともっと金がかかる。子供のいるみなさんご苦労さんです。ニッポンの少子化阻止のためにもがんばってね〜。技術大国ニッポンの持続的発展のためにも、子供を理系に入れてね〜。

 以上をふまえた上で、子供不要論について説明しよう。子供がかわいいから欲しい、というような考えを否定するものではないが、子供をどうすべきか迷っている人の参考になれば幸いである。
 もし子供がいたらどうなるか冷静に考えて欲しい。経済面でみると、とんでもなくカネがかかるのだ。私大の例が示すとおり、¥ではなく、「1フェラーリ」、「2フェラーリ」というカウントの仕方がふさわしい。かわいいのは小学生低学年くらいまでで、10年も経過すると「メシ、風呂、寝る」の三言のみ+「ジジイ、カネ出せ!」と言い出すのが関の山である。子供さえいなければ、浮いた子供の養育費と退職金で老後の蓄えは十分だし、私は車三昧、嫁さんは大学院でお勉強など、お互い好きなことができる。
 ここで子供がいるデメリットについて言い方を変えよう。子供には最終的なリスク回避・リスク低減手段がないのだ。例えば車の場合を考えてみよう。皆さん任意保険に入っていると思うが、これが車における最終的なリスク低減手段となる。車に乗ることで万一人に危害を加えても、可能な限りの賠償はできるようになる。不要になれば捨てることもできる。ところが子供は生まれてきた以上捨てるなんてことはとんでもないし、故意であれ過失であれ人を殺したとかいう話になると、もうどうしようもなくなる。無責任な話だが、夜逃げして一家離散するしかない。リスクが低減できない以上、リスクを犯してでも得られるメリットがない以上、それを選択する余地はないだけなのだ。ここで「自分の子供を全うに育てるだけの自身が無いのか?」と思われる方がいるかもしれない。もしいたら逆にお尋ねしたい。「全うに育っていくと言い切れるだけの明確な根拠がどこにあるのか」と。少子化対策がいろいろ検討されている。経済的側面がよく取りざたされるが、子供を持つことのリスクの有効な低減・回避策についても検討してもらいたいものだ。私には低減のためのアイディアがない。
 生まれてくる子供自身も不幸である。受験戦争にも否応なしに巻き込まれる。小さい頃から「お受験」で競争の毎日。首尾良くいって小中高一貫校に入れても12年間もの間みんな同じなので、一度もリセットをかけることができない。うまくいかなかったら一度ご破算にしてやりなおそうか、という我々がよくやっている手段が使えないのだ。これは最も辛いことかもしれない。働きだしたら、老人(私もその一人となるわけだが)のための年金をささえるため、せっかくの給料をむしり取られる。今我々がむしり取られている以上にぼったくられる。分かり切った過酷な状況に、どうして我が子を放り込めようか。 獅子は我が子を千尋の谷から突き落とす、という有名な逸話がある。はい上がった子に未来があるからこそ、厳しく接することができる。しかし、はい上がっても暗い未来しかないというのが見え見えだとしたら・・・

 というような状況でもし子供がいたらどうなるか想像してみた。私の場合、嫁さんが大学院に行っていた時と同じように多分教育パパになっているのではないかと思われる。嫁が学校に行くと旦那が教育パパになってしまい、テストの点数とかを厳しくチェックするのはよくあることだそうで、私と同じ境遇にあったうちの嫁さんの女友達の旦那(NHK国際部のエリート敏腕記者)もそうだった。これがもし自分の子供だったら・・・よく「死ぬ気で勉強しろ」とかいう言葉があるが、「自殺するまで勉強しろ」と言ってしまいそうだ(死んだら元も子もない)。こういうことをやると、子供は曲がって育つんだ。
 嫁さんは「お受験」を絶対させると言っている。四ッ谷駅の出口で雙葉学園(皇后陛下が幼少のみぎりに行かれたところ)の生徒が小綺麗な格好をして整然と左へと進んでいく。右に進むのは別の学校へ行く汚い格好をしたガキども。このヒエラルキーを毎日見せつけられると、絶対にお受験させたいと考えるようになるらしい。でもAZ−1で面接に行ったら不合格間違い無しだ。
 それから車のミーティングなんかには絶対に連れて行かない。「連中と一緒に遊んでいると将来不良になる」(←大爆笑)とか言って連れていかない。「お前がそんなことを言える立場か」、「連中の最たるものがおまえだ」と突っ込まれるのは目に見えているが、多分言っちゃうなぁ。

 あと「持ち家」不要論者でもある。一国一城の主になることを否定するものではないが、持ち家は不良資産以外の何者でもないので私にとっては不要。家を持つことで住む場所が固定されるため、生き方に制約が生じてしまう。一生で一番高い買い物を定年までローンを組んで購入し、完済した時点で経過した日数が約30年。あちこちガタが出てきたからと言って、またローンを抱え込んでのリフォーム。一方、資産だと思ってた土地や家は、少子化による人口減少で住宅の数がだぶついて売ろうにも売れない。「マイホーム 手の出るところは熊も出る」。特に山奥のベッドタウンに家がある場合は最悪だろう。ゴーストタウンになるのが見え見えだ。取り壊し費用分だけ赤字が出るかもしれない。「騒音おばさん」みたいなのが隣にいたらいやだし。
 以上のことを考えると、どうにも理解しがたいのが耐震偽装問題の被害者の方々。よせばいいのに2重ローンで苦しんでいる。そのうち首都直下型地震が発生して3重ローンを組まされるような・・・借り物の家だったら、壊れたらさっさと出て行けるし(修繕義務は大家にあるため)、やろうと思えば常に新築の家に転居し続けることもできる。
 
 で、浮いた金だが、老後を生きるために、札束が紙屑にならぬよう注意を払いながらせっせと蓄えている。年金なんかはあてにならないためだ。当然元本割れリスクのある金融商品には手を出していない。ローンの返済を生きる目的にするのがいいのか、老後を生き抜くことを人生の目的にするのが良いのか自分でもよくわからない(爆)・・・