言いたい放題

 旧車はあやまちをおかしていたか?

 AZ−1のHPで過去に市川さんの書かれた文章がある。若干固い文章ではあるが目を通していない方は一読をお勧めする。
https://chicappa-az-1.ssl-lolipop.jp/tokubetu/82/82_3.html
この中で「旧車の犯した過ち」と「ボタンの掛け違い=黎明期において明確な方向方針や連携が打ち出せなかったために生じた、ちぐはぐな状態」について私なりに反論したい。


1)情報は散逸したのではなくしまい込まれているだけ −旧車趣味のあやまち−

 そもそも3年前にこの文章が書かれた頃はパソコンの普及は今ほどではなく、指摘のように情報が孤立していたため1)得られたノウハウが明文化されていないため、個人が車を売却・クラブが解散した時点で消滅すること。2)ノウハウが共有化されないため、それぞれが独自の方法で苦労して解決していくという全く無駄な作業を行っていること。については指摘のとうりであった。しかしながら旧車乗り、とりわけ古い年式のものについては、その時点ですでにオーナーの自然淘汰が進んでおり、少数の「しぶとい」オーナー達が稚拙な情報交換手段と大変な数の「トライアンドエラー」を行い情報を収集してきた。大抵こういうオーナーはそのような貴重な情報を安易に捨てるような真似をしないし、第一「言いたがり」である(笑)。こうやって「伝え方の分からない情報」は各オーナーの中にしまい込まれていた。さて、爆発的なインターネットの普及にともない、会社で、あるいは自宅で息子たちがコンピュータをいじるようになるに従い、出口のない情報を持った老人たち(失礼!)が慣れない手つきでHPを立ち上げるようになった。現時点ではそれらはまだ稚拙でありネチケットにも疎いためあちこちで口喧嘩をしているようだが(笑)、ともかく「大物」が情報を載せるようになってきた。こうなるとあとは速い。元が濃いから。こうしてネットに内容の濃い情報が沢山載るようになるとYAHOOなどの検索を用いることで、あたかも「世界最小の〜」のHP内検索を行うと同じ手順で情報を手に入れる事ができるようになる。と私は考える。最低でもそういう情報を持った人にコンタクトを取ることが出来さえすれば、あとは旧来の方法、例えば「菓子折り持って会いに行く」でも良いではないか。


2)旧車部品に関する過ち

 次はパーツに関連した過ちについてであるが、まずは純正部品再生産については今も昔も変わりなく絶望的である。今後メーカーの態度が変わる(経済構造の変化が引き金になると思うが)こともあろうが、もしそういう幸運が訪れたときは旧車、AZ−1の双方が同じように変わるであろう。次にデッドストック、レプリカ製作については過去には旧車は無策であったかもしれない。しかしこれらの部品については今後旧車もAZ−1も条件は一緒である。なぜならどちらの部品も今から市場に出るのだから。
 これら部品を取り巻く環境もネット普及によって変化してきた。ご承知のネットオークションである。これによって「全国統一時価」というものが出現したのである。また丹念に経時的変化を追うことで、部品の需要供給状況がおぼろげながら見えてくるようになった。私は当初オークションが部品価格の暴騰を引き起こすのではないかと危惧していたが、現在旧車であろうとAZ−1であろうと、むしろ相場は(一寸高めではあるが)以前より安定している。まぁ、あっと驚く激安物件が減るのは残念ではあるが。


3)ボタンは掛け違えていたけれど

 最後にボタンの掛け違いについて。確かに旧車は黎明期において明確な方向方針や連携が打ち出せなかったと思う。しかし敢えて言いたい。「それがどうした」と。AZ−1の場合オーナー像から「ネットに詳しい人が多く導入が早かった」ため連携が打ち出せたのであって、旧車の場合も今からこの便利なツールを皆が使えるようになれば良いだけである。ただし死なないうちに情報を吐き出そうね。

注)以上は熱狂的マニア(信者)が多い旧車にあてはまることです。誰もかえりみず油断していたため絶滅寸前になってしまった車にはあてはまりません。そういう車種(超のつく珍車)においては別の楽しみ方(文化遺産を所有するという社会的責任を負いつつ、苦労して復元して比類のない快感を得るという)があります。この場合「なにも無いから大変苦労した」という「過程」が重要で価値のあるものになるからです。


4)これからA20へむけて

 市川さんと話していて、理由やスタイルはどうあれ「この人は10年後20年後もAZ−1に乗っていて、このHPもちゃんと存在するな」と人に思わせるところが凄いと感じる。本人も常日頃「長く乗ること」の価値を高く評価しているようだし。 私がエスに乗り出したのは昭和62年、まだ86が新車で買えた頃だと思うがエス自体はすでに旧車と呼ばれていた(正確には未対策絶版車と呼ばれていた)。このイベントに初参加(第10回)したとき、新車からずっとエスに乗っていた人たちがとてもまぶしく見えた。その後15年経過して今はどうか?と言われれば、自分もすでにベテランのはずなのにその人たちとの距離が全然縮まっていないことに気が付く。別に彼らに見下されたりされているのではなくこちらが勝手に羨ましいだけなのだが。言葉では巧く表現できないが、たとえ車に何百万かけても、何馬力を出しても、どんなに勉強しても追いつけない「何か」がそこにある。多分それがお金で買うことのできない「時間」「歴史」というものなのだろう。その人たちが、エスが現行車として売られていた時期に普通にそれを「使用していた」という「事実」かと。
 私のもう一台の愛車キャラについては、その車が新車で売られた時代を知り、その頃からずっと乗っているわけで、このままずっと乗っているとエスでいう「あの人たち」のような存在になるのかな?と漠然と感じる。この10年をAZ−1と共に暮らしてきた人は将来、後からこの車にノスタルジックなものを感じて買う若い世代の人にそのような眼差しで見られるようになると思うし、それを自覚して欲しいと思う。


5)どんなものでも捨てないでとっておこう

 旧車所有者の自分からAZ−1の世界をみて書いておきたいことがもう一つある。それはこれから先、今まで以上に「パーツを安易に捨てない」ということである。これは何も「強化したのでいらなくなった純正部品」のことだけを言っているのではない。壊れて使えない一見ゴミにしか見えない部品についてもである。ひしゃげたドアからも使えるパーツは取れる。割れた外装部品も補修出来るかもしれない。ちぎれたゴム部品も流用パーツを探す時に現物合わせの役に立つ。錆の塊になっていてもブラストして、あるいは新たに製作する時の図面代わりになるかもしれない。でも燃やしてしまえば灰になるのである。とにかくどんなに状態が悪いと思っても一から作るより楽と思えるなら取っておくことをお勧めする。コアなオーナーでない方は周辺の「物持ちの良さげな」人物か、「田舎在住で置き場所に困らない」人物に差し上げよう(笑)。「AZ−1は部品供給が良いので今でもその気になれば全部新品で組める」、、、、というのは夢のまた夢であるからである。