これが本当に理想なのか
今まで書いてきたことだけを見ると、理想的な状態にあると思われるかもしれない。確かにその通りなのだが、「これは理想的とは言えない」という意見もある。例えば、ノウハウが整備されすぎている点である。遠い将来AZ−1を買う人は非常に助かることなのかもしれないが、見方を変えると旧車で行っている「何が出てくるか分からない宝探しの楽しさ、各人の工夫・努力」を現在の我々が奪い取っていることになる。すべての答えを用意しようとしているからだ。同様に「誰の力も借りず、車や資料を掘り当てて1から起こす」というマニアにとって、AZ−1は最高に魅力のない車となるかもしれない。
一方、現在でも問題が出始めている。矢継ぎ早に情報が提供されている状況から「情報は放っておいても向こうから勝手にやってくるものだ」という受け身の姿勢になってはいないだろうか。例えば、掲示板の書き込みに対するコメントの少なさからも伺える。これでは情報を提供した人も張り合いがないし、何らかのコメントがあってこそ話が発展し、より有益なものになっていくはずだ。
話をもとに戻そう。このような見方をすると、AZ−1のHPの方向性が本当に正しいのかどうかは分からない。しかし、現在の旧車のような活動をしていては得るものは少ないし、あれだけ長期間活動していても答えらしい答えは見つかっていないように思う。
ならば進むべき道は1つ。旧車の犯した過ちを教訓として、自らの手で今までの自動車とのつきあい方を変革していくことだ。やり方は既に述べた通りであるし、皆さんは既に実行している。これにより自動車文化というものに対し、新たな道が開けるものと私は確信する。
開設3周年記念 一般教書演説より抜粋