FORMULA DRIFT

 これ、公道上に設けられた特設サーキットで、ドリドリやってしまおうというイベントだ。クアラルンプールモーターショー同様、各紙とも取り上げていた。



 観客数もそこそこ多い。



 どういう形であれ、モータースポーツに興味が向くというのは、実に若者らしく(自動車黎明国らしく)健全な姿だと言える。



 日本でもドリドリやっているが、盛り上がり方(物珍しさ度)でいうと、マレーシアの方が強いように感じた。その熱心さゆえか、日本からマレーシアに渡った人もいる。下の写真はマレーシアのショップの広告なのだが・・・



 常勤なのか非常勤なのか、ここで働いているらしい。



 他にもRE雨宮の人がマレーシアに渡っていろいろ指導しているらしい。海外事業部なんてあるんだ。





 これだけ熱気があるのなら、日本よりマレーシアの方が面白いだろう。より熱気ある人を求めて、海を渡るのも当然かもしれない。

 話は変わって「日本には自動車文化が無い」とよく言われる。一方で「自動車文化とは何か」を定義している人も少ない。定義が定まっていないのに、有るだの無いだの言うこと自体がそもそもおかしい。「自動車文化、自動車文化」という人(雑誌含む)には、一度自動車文化の定義は何か聞いてみてほしい。定義があやふやなはずだ。

 当HPにおける自動車文化の定義は「得られた知識を相互に還元しあって活用し、車を通じて有形無形の財産を作り上げること」である。これはかなり美しい言い方だが、もっと別次元の、もっとお下劣な言い方をすると「自動車文化とは、自動車に関する超法規的既得権益が存在し、それらがステークホルダにもたらすWIN-WINの関係の総称」となる。
 例えばモナコGPでは公道をサーキットにしている。公道をサーキットにしても良いという超法規的既得権益(←日本の常識からするとそう見える)と、その既得権益に群がって一山当てようとする人間(例えば道路が封鎖されると困るが、レース観戦の宿泊客が増えるからまあいいかと思うホテルや、既得権益として認める代わりにより多くの税収を上げようとする行政)にWIN-WINの関係が成立しているからこそ成り立つ話である。


 「得られた知識を・・・」を第一の定義、「自動車に関する超法規的既得権益・・・」を第二の定義とした場合、いずれにも当てはまらないものは、自動車文化なんてたいそうなものではなく、単発的な道楽であろう。
 日本には自動車に関する超法規的既得権益なんてものが無い以上、第二の定義にあてはまる自動車文化は存在しないといえる。一方、マレーシアではFORMULA DRIFTのように超法規的措置によって公道をサーキットにしている。ひょっとするとマレーシアでの超法規的既得権益化の流れをみていけば、現代における自動車文化の黎明期においては何がどういう風に進歩していくのかが見えてくるのかもしれない。