開設4周年記念一般教書演説
本はなくなるのか
爆発的な勢いで増え続けるインターネット人口。2000年のインターネット白書によると、前年比28%アップだという。それと同時に、いやそれ以前より指摘されていた事の一つに「インターネットの出現により、本がなくなってしまうのではないか」という危惧がある。特にコンピューター関連の雑誌の危機感は尋常ではなく、いささかSFチックでさえあり、にわかに信じ難かった。
私自身は「そんなことはあり得ない」と思っていた。理由は、現在のパソコンのインターフェースは「本」に対して1世代前のものだからだ。どういうことかというと、現在のパソコンでモニターに表示されている文字は一種の「巻物」に書かれてあるものだとと言っていい。上下へスクロールするからだ。書籍の歴史は巻物から現在の本に変化していった。だからこそ、現在のパソコンのインターフェースは1世代前のものといえる。しかも表示(可視)領域が限られており、巻物よりも劣悪なインターフェースといっても良い。また本の方がじっくり、前後関係を把握しながら読める。1ページ当たりの文字数がモニターに表示されるものより多いためだ。パソコンでは検索が簡単にできるというメリットが確かにあるが、以上のような理由で本は便利なものであり、無くならないと思っていた。
が、現実には主要な本がどんどん減ってきている(他の本は大量に印刷され、大量に返品されている)。例えば「Mac User」という雑誌があったのだが、廃刊となった。理由は「雑誌媒体の役割が終焉した」とのことだった。つまり月刊誌ならば情報の鮮度が落ちてしまうので存在意義がなくなったというのである。本の売れ行き不振を体よく繕うための理由かと思っていたのだが、「Mac User」は「Macintosh Wire」と名を変えて、メールとして有料で配信されるようになった。これは基本的に毎日膨大な量の情報が配信され、よくもまあここまで情報を集められるものだと感心すると同時に、今まで雑誌でボツになった原稿の数が目に浮かんだ。
ところがである、インターネットによって事態はさらに悪化した。同じような情報を無料(バナー広告はある)で配信するところが出てきたのだ。これはMacオタクが作ったとあるサイトなので基本的には素人が作ったものである。そのため「Macintosh Wire」が有料である意味合いがなくなり、無料化されてしまった(広告はある)。これは本がなくなってしまうどころか、一発芸を持った素人が寄り集まってサイトを開き情報を公開することができれば、様々な分野のことを評論しなければならないプロのライターは不必要になったことをも意味する。コンピューター関連の雑誌の危機感が現実のものとなったのだ。
これらの現象から、インターネットの普及によって本離れは起こったかも知れないが、逆に文字文化は非常に活性化している状態になったともいえる。皆さんも毎日膨大な量のメールを読み書きしているし、現在ご覧のコンテンツも、放送で聞こえてくるものでない。表現する手段が本に印刷されたものからモニターに表示されるものに変わっただけなのだ。これだけの量を郵政省メールでやりとりした経験はないだろう。しかもコンテンツの「質」が問われ始めている。先ほど述べたとおり、有料であった「Macintosh Wire」は無料化された。同質ならば片方が有料で片方が無料ならば、みんな無料の方を選択するからだ。またこのような競争をながめることによって、我々自身も情報の「質」について目が肥えてきた。
自動車雑誌の惨状
以上の話はコンピューター関連のものなのだが、我々に関係する自動車の方はどうであろうか。残念なことに前述の危機感(本がなくなる、プロのライターは不必要、読者の目が肥えてきた)が全く感じられないのである。簡単な例でそのレベルがわかる。代表的なものが「承諾無しにURLやメールアドレスを掲載する」こと。私は公開されてもかまわないし、またそうしてもらった方がうれしいのだが、ネットワークの常識・礼儀としては、一応掲載許可・不許可の問い合わせのメールが来るべきである。事実、コンピューター関連の雑誌にURLが掲載される場合、100%問い合わせのメールが来るが、自動車の場合は今まで1度しか来たことがない。私はこの現象を、自動車雑誌編集担当のモラルが低いのではなく、ネットワークで常識的なことさえわからないほどインターネットに関して不慣れであるため、と解釈している。これでは危機感など出ようはずもない。
もしこの解釈が正しく、また自動車雑誌の方向性がコンピューター雑誌と同じであるとするならば、その将来は悲惨である。童話「裸の王様」では、詐欺師が「これはバカには見えない生地でございます」と言って王様をだまして服を縫うまねをする。回りの者も自分はバカでないと信じたいからこそ、実際に存在しない生地を素晴らしい生地だと褒め称える。
どの自動車雑誌とは言わないが、これと似たようなものがたくさんある。「フェラーリにはクラッシックがよく似合う」とかいう訳の分からないこと・無責任な言葉の遊びを平気で書く詐欺師役のライター・評論家たち。それを分かったような顔をして読んでいる王様役の読者。インターネットの普及により読者の目は肥え、詐欺師役のライターや評論家たち、それを抱え込む雑誌は消えていくだろう。またこういうことを書くのが好きなライターや評論家ほどヨーロッパ車が好きで、裸の王様もヨーロッパの話であるとは何とも皮肉なものである。と書いていると「特大痔のジジイも入ってるの?」と、嫁さんから突っ込まれた(核爆)。
AZ−1オーナーはどうあるべきか
とまあ前置きが非常に長くなったが、ここからが本論である。希少・絶版車であるAZ−1のオーナーは、詐欺師役にも王様役にもなってはならないのである。もしそうなると、本当にやらねばならぬことを見逃してしまい、今まで何度も書いていることだが、旧車の犯した過ちを繰り返すことになるからだ。
旧車の犯した過ちを簡単に言うと、
1.資料がない
2.パーツがない
3.情報が分散化してノウハウがまとめられていない
である。
また、さらに新たに発生した問題として、AZ−1オーナー間の「情報の南北問題」がでてきた。「情報の南北問題」とは、インターネットをやっている者とやっていない者の有する情報量の差が大きくなってしまうことである。
これらを防ぐためにはどうすればよいのか。まず旧車の過ちを防ぐことに関しては、各人が目標・目的を持った上でモータースポーツ・改造・ドレスアップ・トラブルシューティング・剥ぎ取りなどに取り組み、その内容をこのHPで公開して多くのAZ−1オーナーに情報を還元し共有化しているので、今まで通り取り組んでいけば問題はないものと考えている。新しくオーナーになられた方は、先輩オーナー達の活動ををそういう目でもう一度見直してていただきたい。「単にAZ−1を所有している」という状態から1つ次元の高い状態、つまり自分がみんなに対して還元できることは何なのか・自分がAZ−1で何をしたいのかが見えてくると思う。具体的にどう取り組んで行くべきかは「開設3周年記念一般教書演説」も参照されたい。
問題なのは「情報の南北問題」の方である。インターネットをやっていない者に対してそれをさせるにはどうすればよいか。残念ながら有効な手段を見いだせずにいる。駐車している見知らぬAZ−1にチラシを挟んでも効果は少ない。前述の通り、インターネット人口の伸びが大きいため、自然増を待つという消極的な手段しかないのかもしれない。
「情報の南北問題」の代表例が、K-CARスペシャルの2000年8月号の356ページにある。「KC-501」という人が「Reader's talk」の「ガルウイング同盟」というところに「全てのAZ−1オーナーに告ぐ」と投稿しているのだ。インターネット上で北は北海道から南は沖縄までのオーナーがどれほど活発に活動しているかを知らないのである。こういうやる気のあるオーナーこそ、是非ともインターネットに出てきてもらいたいものなのだが・・・
そこで私も「インターネットをはじめてみませんか」という内容の投稿を行った。次号には間に合わないかも知れないが、次々号には掲載されるかも知れない。が、Kスペの雑誌としての役割が終焉したかのごとく読みとれる内容も含まれているのでどうなるか。私の投稿が掲載されるか否かで、Kスペ編集部の懐の深さが読みとれると思う。仮に掲載されたとして、まだインターネットをやっていないAZ−1オーナーをどれだけ引き込むことができるのか。後は結果を待つのみである。